教えのやさしい解説

五  濁(ごじょく) 
 
(妙教 279号) 
 五濁
 我々の住むこの世界は、洪水や地震、噴火等の自然災害が絶えず、凄惨な事件や事故、耐震偽装等の不正、いじめ問題など、不幸な報道が毎日のようになされています。
 このような世相を見て「世の中は平和で、人々は安心して穏やかな生活を送っている」と感じる人は、まずいないでしょう。
 仏教では、末法時代においては五濁という濁りによって、人々の命や思想をはじめ社会全体が濁ってしまうことが説かれています。
 乱れた世の中を憂いている人は、「現代は人々の心や社会全体が濁っている」と聞いて腑に落ちるのではないでしょうか。
 今回は五濁について学び、この世の中で、どうすれば真の幸福を得ることができるのかを考えましょう。

《五濁とは》
 五濁とは、仏道修行を妨げる五種の濁りであり、劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁の五つを言います。
 法華経方便品第二には、
「諸仏は五濁の悪世に出でたもう」(法華経一〇五)
とあり、諸仏は濁った世の中で苦しむ人々を救うために出現されると説かれています。このように濁った世の中を五濁悪世、濁悪世、濁世と言い、五濁が盛んとなり世の中が乱れることを五濁乱漫、五濁雑乱等と言います。
 それでは、五濁の内容を見てみましょう。
@劫濁
劫濁とは、飢饉・疫病等の天災や戦争等が起こり、世の中が乱れるという、時代そのものの濁りです。
 これについて、天台大師は『法華文句』に、
「劫濁は別体無し。劫は是れ長時、刹那は是れ短時なり。但四濁に約して此の仮名を立つ」(文句会本上七〇一)
と釈しています。つまり、劫濁には実体があるわけではなく、他の四濁が盛んで、その濁りが長く続いている状態を指すのです。
A煩悩濁
 煩悩濁とは、五鈍使(※)等の煩悩によって人々の心身が濁ることで、様々な悪徳がはびこることを言います。
※貪瞋癡慢疑の煩悩。貪…貪り/瞋…怒り/癡…道理に暗く愚かなこと/慢…驕り高ぶること/疑…正法を信ぜず疑うこと
B衆生濁
 衆生濁とは、煩悩に冒された人間が集まり社会全体が濁ることで、人間の資質が低下して心身が弱くなり、苦しみが多くなることを言います。
 衆生濁について『文句』には、
「衆生濁も亦別体無し」(同)
と釈されており、衆生濁は、最初の劫濁と同様に実体はなく、全体的な濁りを指します。
C見濁
 見濁とは、五利使(※)などによる思想的な迷いであり、諸々の邪悪な思想・見解が広まって人々が迷う姿を指します。
※身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五つの煩悩。身見…永遠不変の自我があるとする我見と、一切を我が物と執着する我所見/辺見…一切は死により断絶するとする断見と、一切は死後も常住とする常見の一方に偏ること/邪見…正しい因果を否定すること/見取見…自分の見解だけが正しいとすること/戒禁取見…誤った戒律等で解脱が得られるとすること
 D命濁
 命濁とは、見濁と煩悩濁によって衆生の生命そのものが濁り、寿命が次第に短くなることを言います。
 五濁の関連性について『文句』には、
「煩悩と見とを根本と為す。此の二濁に従って衆生を成ず。衆生より連持の命有り。此の四時を経るを謂って劫濁と為すなり」(同七〇六)
と釈されています。
 つまり、五濁の根本は煩悩濁と見濁であり、この二濁を元として衆生濁となり、それが連続し維持されて命濁を生じ、さらに劫濁という時代の濁りになる、ということなのです。

《妙法の信仰こそ五濁を離れる方途》
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「日蓮等の類は此の五濁を離るゝなり。我此土安穏なれば劫濁に非ず、実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず、煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず、五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり」(御書一七二九)
と仰せられ、また『御講聞書』には、
「法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し」(同一八四七)
と仰せられています。
 この御教示のように、私達は五濁悪世において大聖人の仏法を受持し、信心修行に励むことで、あたかも白蓮華が泥水の中で清らかな華を咲かせるように、五濁を離れて即身成仏の境界を顕すことができるのです。

《五濁に染まった人々を救おう》
 大聖人は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じてカあらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同四〇三)
と御教示されています。
 また、御法主日如上人猊下は、
「世間を見ますると、末法五濁悪世の世相そのままに、世界の至る所で戦争や争いが絶えず、騒然とした様相を呈しております。また自然界においても、異常気象による集中豪雨や竜巻などの突発的現象、大規模な地震などによって大きな被害が出ておりますが、こうした混沌とした現状を救済しうる唯一の大法こそ、宗祖日蓮大聖人様の仏法であります」(大日蓮・平成二三年三月号)
と仰せられ、また、
「五濁乱漫の末法においては(中略)苦悩と混乱と不幸の根本原因が邪義邪宗の謗法であることを教え、その謗法を断つことが真の幸せを築く絶対的要件であることを、世の多くの人々に伝えていかなければなりません。その具体的実践の方途が、すなわち折伏であります」(同・平成二四年二月号)
と御指南されています。
 私達は、これらの御教示を拝し、五濁悪世の人々や社会を救う唯一の方法は大聖人の仏法を弘めることであると心得て、清浄な仏国土実現を目指して唱題行に励み、さらなる折伏行に取り組んでいきましょう。
  
五  濁(大白法472号)
五濁とは、悪世(あくせ)末法における仏道修行の妨(さまた)げとなる濁(にご)りのことをいい、五種の姿があります。これは、『法華経方便品(ほうべんぽん)第二』に、
「舎利弗(しゃりほつ)、十方(じっぽう)世界の中には、尚(なお)二乗無し、何(いか)に況(いわん)や三(さん)有らんや。舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出(い)でたもう」(開結 一七〇)
と説かれており、五濁は、劫濁(こうじょく)、煩悩(ぼんのう)濁、衆生(しゅじょう)濁、見(けん)濁、命(みょう)濁の五つをいいます。
 はじめの劫濁とは、戦争・疫病(えきびょう)・飢饉(ききん)などが起こり、世の中が乱れるという、時代そのものの濁りをいいます。天台大師の『法華文句(もんぐ)』に、
「劫は是(こ)れ長時(ちょうじ)、刹那(せつな)は是れ短時なり、但(た)だ四濁(しじょく)に約(やく)して此(これ)仮名(けみょう)を立つ」
とあるように、劫濁は他の四濁が盛(さか)んで、その濁りが長く続いている時を指します。
 次に煩悩濁とは、五鈍使(ごどんし)(貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ))などの煩悩による心身の濁りをいいます。貪は愛着することであり、瞋は怒(いか)ることであり、癡は道理に暗く愚(おろ)かなことをいいます。慢は驕(おご)り高ぶることであり、疑は法を信ぜず躊躇(ちゅうちょ)することなど、これらは煩悩に支配されるという個人における本能的な迷いの姿をいいます。
 次の衆生濁とは、煩悩に冒(おか)された人間の集まり、すなわち社会全体の濁りのことをいいます。衆生濁について『文句』には、最初の劫濁とともに「別体(べったい)無し」と釈され、時代や社会の濁りについては実体があるのではなく、全体的・総合的な濁りを意味します。
 四番目の見濁とは、五利使(ごりし)(身見(しんけん)・辺見・邪見・見取見(けんしゅけん)・戒取見(かいしゅけん))などによる思想的な迷いをいいます。身見は自我(じが)に執着(しゅうちゃく)する考えであり、辺見は生命は死によって無となるなど一辺(いっぺん)に偏(かたよ)った考えであり、邪見は因果の道理を無視する考えをいいます。見取見は前(まえ)の三見(さんけん)に固執(こしゅう)し、劣(おと)っているものを勝(すぐ)れていると見る考えであり、戒取見は仏法上、戒(いまし)め禁(きん)じられている邪行(じゃぎょう)に固執する考えのことをいいます。これらは理(り)に迷って煩悩に冒されている姿を指します。
 最後の命濁とは、心身ともに衆生の生命そのものが濁り弱まることや寿命の短減(たんげん)のことをいいます。
 五濁の関連性について『文句』には、
「煩悩と見とを根本と為(な)す、此(この)二濁より衆生を成(じょう)ず、衆生より連持(れんじ)の命有り、此(この)四時(しじ)を経(へ)るを謂(いい)て劫濁と為(な)すなり」
とあり、煩悩濁と見濁が根本となって衆生濁となり、それが連続維持(いじ)し命濁を生じさせ、さらに劫濁という時代自体の濁りになるとしています。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「日蓮等(ら)の類(たぐい)は此(こ)の五濁を離るゝなり。我此土安穏(がしどあんのん)なれば劫濁に非(あら)ず、実相無作(じっそうむさ)の仏身なれば衆生濁に非ず、煩悩即(そく)菩提・生死(しょうじ)即涅槃の妙旨(みょうじ)なれば煩悩濁に非ず(乃至)正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)但説無上道(たんせつむじょうどう)の行者なれば見濁に非ざるなり」(平成御書 一七二九)
と仰せです。五濁悪世の今日にあっても妙法を受持信行するところに、その濁りに一切染(いっさいそ)まることなく、成仏の境界が得られるのです。